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垂井曳山祭りへ行ってきました。

垂井在住の知人に誘われ『垂井曳山祭り』を初めて訪問しました。

訪れるまで知らなかったのですが、旧中仙道の街道筋を通行止めにし行なわれる歴史ある祭りでした。
興味深いことがいくつか。
ひとつには祭りの山車を持つ街道筋の街に住むという事の意味が引き継がれていること。
20代、30代の若者が多く、山車に参加していて、子ども歌舞伎の世話までしている様子が見られました。
また材木屋としては、『山車』。垂井には三台の山車があり、いずれも漆で仕上げられていましたが、二台は主にケヤキで、一台は杉が用いられていることを注目しました。
ちなみに車輪(タイヤ)は松。荷重・重力がかかる車輪は他の樹種では代用が利かないことは、材木屋には良く知られている話しで、注文のある車輪サイズに適した松をタイムリーに用意することは困難なので、単価も・・・。
そして、この祭りの起源が南北朝の争いに敗れた北朝側が、垂井に難を逃れてきたことにあることを聞いて、この垂井の歴史的意味を考えるに至ったのです。
南北朝の争いは、濃尾平野の争いだと・・・。

以前、歴史学者に聞いた話です。
日本の歴史上、唯一天皇家が二分して戦ったのが南北朝の争い。
勝利を収めた南朝が取った戦略は、興味深いものです。
南朝が拠点にしていた吉野から京の北朝を攻めるにあたって、伊勢を経由し垂井・関が原に移動し、物資・兵を供給した上で北朝を攻めたそうです。
なぜ、垂井・関が原を拠点にした理由は何か。
濃尾平野が豊穣の大地・平野だったのだというのです。
朝鮮半島から渡来人が舟で敦賀あたりに流れ着き、南に下り米原から西へ行けば都である京都。東に行けば濃尾平野。
そこで広大な面積と木曽三川の水が豊富な濃尾平野に、大陸伝来の当時としては最先端の土木技術や農業技術がもたらされ、生産性の高い土地であったと考えられると。
そこで、南朝は濃尾平野の物資の集散地である垂井・関が原のあたりを拠点に、兵力を整えたのではないかと。

垂井は宿場町としてだけでなく、歴史上重要な役割を果たした物流の拠点・物資の集散地であったのだろうと、垂井曳山祭りを眺めながら考えたのです。



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No title

美濃を征するモノは天下を征すいわれますが。戦国の世、信長の天下取りの話かと思っていましたが。ヘェ〜。南朝と北朝の勢力争いと濃尾平野、知りませんでした。
関ヶ原は、天下分け目の決戦の地。それ以前に南北朝時代にも・・・。
勉強になりました。KGB

Re: No title

『美濃を制する者は・・・』の根拠が、生産性の高い濃尾平野を支配することで経済的優位に立つことだということです。
美濃、とりわけ西濃には、大陸由来と思われる地名が多く存在していることと、『東(あずま)』とは濃尾平野のコトではないかとの説もあると聞かされました。
南北朝の争い。勝った南朝は垂井・関が原を拠点に戦いをはじめ、敗れた北朝が垂井に逃れる構図は、歴史的に興味があります。スポンサーになる誰かがいたのだろうかと・・・。

中川


> 美濃を征するモノは天下を征すいわれますが。戦国の世、信長の天下取りの話かと思っていましたが。ヘェ〜。南朝と北朝の勢力争いと濃尾平野、知りませんでした。
> 関ヶ原は、天下分け目の決戦の地。それ以前に南北朝時代にも・・・。
> 勉強になりました。KGB
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