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JR岐阜駅にて

先日JR岐阜駅に出かける機会があり、駅西駐車場から駅に向かって歩いていくと、左側の壁に『岐阜空襲』なる文字と焼け野原になった岐阜の街のパノラマ写真が目に飛び込んできました。
急いでいたのですが、立ち止まって見てしまったのです。

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高齢者の人たちから聞かされる過去の岐阜の話の中でも、岐阜空襲の話は悲惨です。
ひと晩で岐阜の街が見渡す限りの焼け野原になってしまったこととと、おびただしい死体の数について。

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展示されているパノラマ写真は岐阜空襲直後でなく、終戦後のものです。
すでにローマ字表記の看板があることが解説にあります。
米兵相手の商売だからでなく、新しい時代の風潮としてローマ字が使われていたことから終戦後の岐阜の人々の生活には進取の気性と明るい希望が存在したのだと思われます。

この掲示から、岐阜空襲の爆撃の中心が、金神社の北側の徹明通りと凱旋道路の交差点であったことをしりました。
私の記憶では、この交差点のところに傷痍軍人が空き缶とともに座っていた記憶があるのですが・・・。
場所については確かではありませんが、兵隊さんが路上にいる姿を覚えています。
もし、私の記憶通り、この交差点が正しいのならば深い意味があったのだと今さらながら思います。

岐阜の街の過去、昔を語る人が少なくなった今、このような展示には意味があります。
私は、岐阜の南北の通りを『長良橋通り』、『金華橋通り』、『忠節橋通り』と表記・呼称することに反対です。
街の歴史、文化を踏みにじる行為だとすら考えます。
地名を記号として扱うことは、愛着が無いからできる行為です。

現在の『金華橋通り』が以前は『平和通り』と呼ばれていました。それ以前は『凱旋道路』と。
街の歴史を考えることを停止させないためにも、郷土の歴史の意味を考えたいと思います。

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代表取締役 中川稔之

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