スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

直立不動

高校時代の恩師が教育功労で叙勲をされ、そのお祝いの会を催しました。

先生に野球部の監督として指導を受けたのは、高校に入学してから二年生に進級するまでのわずか一年間だけ。
3年生の夏まで野球を続けたのですが、先生が辞められてからの1年半には良い思い出はあまりありません。
先生の指導は厳しかったし、存在が恐かった。
今でも先生の前に立つと、自然に背筋がピンとなります。

もはや古豪と形容される母校野球部は昭和53年選抜以来甲子園からは遠ざかっています。
昭和53年の選抜に出場した時には、私は中学生。テレビで観戦した様子が今でもしっかりと記憶に・・・。
和歌山県の吉備高校との初戦は、雨中のシーソーゲームを制したこと。
二試合目は、投打に大会を代表する好選手を擁する群馬の桐生高校と対戦し敗れたものの中学生に憧憬を抱かせるには充分な内容でした。

いざ入学してみると、憧れだけでは務まらない厳しい現実も・・・。
上下関係はもちろん、同級生同士の鍔ぜり合い・・・。
練習に押し寄せるOBの目と声・・・。
唯一、心のよりどころは『監督』。優しく温かいというものではなく、周囲の声や状況に動じない厳しく恐い威厳のある存在が何よりも頼もしく感じたものでした。
この人の下で一生懸命努力すれば間違いないと・・・。

当時、母校野球部の監督を務めるのは野球部OBの教員や外部民間人が多い(殆んど)中、異色のキャリアの持ち主。
自分自身は野球経験がない数学の教員。その人が監督に抜擢され甲子園にまで導いたのです。
周囲からの様々な声が寄せられていたはずであろうに、私たちはそれにさらされることも殆んど無く・・・。
私たちが2年生に進級する春休みの3月31日をもって、突然監督が別の人に代わりました。
母校野球部のOBの教員に。
思春期の高校生がモノ分かり良く気持ちをきりかえれるはずはなかった。


私たちが開いたお祝いの会で、壇上に立って話をする先生の姿を私たちは椅子に腰掛けて聞いていました。
腰掛けてはいたものの、気持ちは直立不動で背筋を伸ばし先生の顔を見つめたまま。
ベンチの前で円陣の中心に立つ先生の話に集中する高校生の頃のように・・・。
いつまでもいつまでも話を聞いていたいと願いながら・・・。

コメントの投稿

非公開コメント

プロフィール

jdforest

Author:jdforest
本庄工業株式会社
代表取締役 中川稔之

カレンダー
07 | 2017/08 | 09
- - 1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31 - -
カテゴリ
最新記事
最新コメント
カウンター
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
QRコード
QR
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。